もう咲かない桜







桜の咲くころまで、彼はそばにはいなかった。
 花冷えとは、こんな夜を言うのかもしれない。
昼間は少し汗ばむほどの気温だったのに、今は息も微かに白く、開け放した窓のカー テンを揺らす風も冷たい。
ベッドに寄りかかって、グラスを傾けて、静かな夜はまだ始まったばかりだ。
 そろそろコートをしまいこむ季節だろうか?
かといって、年中通して、同じような格好ばかりしているからあまり季節感など感じ たこともないが。
 ふと、何かが、グラスを持つ自分の手に当たった。
「さくら…?」
開け放した窓から入り込んだのだろう。
薄桃色の花びらが、床も見えないほど乱雑な部屋に無数に舞い落ちていた。
(いつの間に…)
さっきまで、気配もなかった。
目を閉じていた隙の侵入だろう。
「風か……」
そうか、もう桜が咲く頃か。
いつだっただろう。
そうだ、確か、この部屋のベッドで彼が「死人」となって寝ていた時だ。

「春になったら花見に行きたいですね」

まだ痛む傷を抱えて、彼は青白い顔をして笑ってて。
「バカか、お前は」
と苦笑したことを思い出す。
 結局、桜が咲く前に彼は逝った。
(……花見、したかったな)
下戸の彼を介抱役に据えて、倒れるまで浴びるほど飲んで、桜を愛でるのも悪くない と思ったのだけど。
そんな自分に対して安藤は
「僕、お弁当ちゃんと作りますから、美央ちゃんも呼んで、佐藤さんも一緒に。花見 は家族でしなくちゃ」
と張り切っていた。
「まだ、家族かな?」
「家族ですよ」
雪平の不安な気持ちをやんわりと包み込むように、安藤が笑う。
 そうだ、適わない夢を見た。
桜の下で、彼の作った弁当を囲んで「家族」で笑う幸せな幸せな夢を。
ああ、まだこんなにも覚えている。否、きっと消えることはないだろう。
これこそが彼の「復讐」だったのだから。


生きている限り、心臓が鼓動を刻む限り、呼吸をする限り、罪を憎む限り。
雪平は安藤を忘れないだろう。
この心の中に、憎しみと悲しみと愛おしさの連鎖を残していった男の事は決して忘れ ないだろう。


 グラスの氷が揺れて、少し肌寒い春の夜風のせいか、熱に浮かされたように安藤を 思い出す。
「雪平さん、ほら、こんなとこで寝ないで」
だから、この声もきっと夢だ。
ベッドに寄りかかっているはずなのに、安藤の胸に寄りかかっているような温もりを 感じる。
「寝るなら、ちゃんと窓を閉めて、ベッドで寝てください」
呆れた声に反発するように、雪平がグラスを煽る。
「まだ、寝ない。飲む」
「ったく底なしなんだから」
「…今、花見してるの。花見だから飲むの。酒のない花見なんてあり得ない」
花の形を作っていた残骸は、今、雪平と安藤に降り注いでいる。
「確かに綺麗ですね、桜。この部屋の窓からだと咲いてるの見られないのは残念です けど」
「花見、一緒にしようって言ったくせに、安藤の嘘つき」
「今してるから勘弁してください」
「弁当作るって言ったくせに」
「…ま、確かにそれは今は無理ですが」
 この部屋から桜は見えないが、近くに大きな木が何本かある公園がある。
そこから風に乗って無数に流れてきている桜の屍骸が、雪平の部屋に辿り着く。
桜が降り注ぎ、まるで埋められていくかのようだ。
「…桜ってさ」
「はい?」
「人の血の色を吸ってるから、こんな色の花が咲くんだって聞いたことがある」
白い指先がまだ柔らかさを残した「死にたて」の花びらを拾い上げる。
「それは、お伽話ですね」
「だね。だけど、こんな色なら綺麗だね」
「血が?」
「そう…。あんなに赤くて、熱くて、痛いものじゃなければ」
安藤の血の色が、こんなに綺麗な色なら。
自分の血がこんな色なら。
「……まったくしょうがない人だなぁ」
安藤が笑って後ろから雪平を抱き締める。
「寂しいくせに寂しいって言えない人なんだから」
「うるさい」
「ほら、やっぱり。だけど、そんな意地っ張りでプライドの高い雪平さんも好きです よ」
 泣きたくなる。
この幻の腕に縋りつけない、だけど離れることもできない弱さと寂しさを雪平は自覚 していた。
「……安藤」
「はい」
「もう、あたしは一生、花見はしない」
「……」
「あんたとしたかったこと、もう一生、しない」
「……雪平さん」
「だから、離れていかないで」

生きている限り傍にいて。
一人にしないで。
もう裏切らないで。

「……ごめんね、雪平さん」

安藤の幼さを残した声に、雪平は目を閉じた。
ああ、そうだ。
ずっと彼と、こんな風に。

「バカか、おまえは…」

一緒にいたかっただけなのに。


死に逝く桜の花に埋もれて、この春は終わる。
無数の花びらもいつしか土に返り、また春に生まれ来るだろう。
花のように人の心も再生していくならば、雪平は拒絶を選ぶ。
再生などいらない。
なくしたものを手に入れたいとは思わない。
ただなくしたことを忘れずにいれば、それはなくさないでいられる事と少しだけ似て いると知っているから。


もう、雪平の春に桜は咲かない。






                              終





writerd by,nekomimi