7:幸福な二匹の猫のように







 あなたの横顔が好きだった。 凛として、情熱的で、それでいて、恐ろしいほどにクールで。
そして、遠く。
どこまでもあなたは遠く。
こんなに傍にいても、喉笛を噛み切れるほどに傍にいても、あなたは遠かったんだ。


潮風がきつい。
だが、この匂いは血の匂いに少し似ていて、それが雪平の血だと夢想すると少し気分がよくなる。
 安藤はゆっくりと倒れこんで空を見上げた。
潮の匂いと、船の走る音が聞こえる。
「きらきらひかる…おそらのほしよ…」
口ずさむのは、彼女が「儀式」の時に鼻歌で歌う歌。
雪平のことなら何でも知っている。
いや、何もかも知りたいのだ。
歌い終わって目を閉じていると、ふと影が掛かったのが分かり、目を開けた。
「雪平さん」
「なんだ、生きてた?」
「死んでるように見えました?」
「……こんなとこで寝てるな、馬鹿」
くるっときびすを返し、コートの裾を翻し、迷いのないヒールの音を身を起こして追いかける。
「待ってください、雪平さん」
「さっさと来る」
「はい」
迷いのない雪平が歩く靴音の隣に立ち、ちらりとその横顔を見た。
(綺麗な人だな)
綺麗な人だ。
普通の美人なら、微笑めばもっと美しいのかもしれないが、どこか張り詰めた怒りのような表情のほうが雪平夏見という女は美しい気がする。
「安藤」
「はい」
「今夜、飲みに行こうか」
「今夜も、でしょ?」
「うるさいな。小姑みたいだよ」
「雪平さんの相棒は小姑並でちょうどいいんですよ」



 いつものもつ兵衛で、雪平が顔色も変えずに日本酒を立て続けに煽り、安藤はその横でキャベツとウーロン茶で雪平の暴言をハイハイと受け止め、事件の最中だというのに、それでも二人で過ごすこんな時間が嬉しかった。
うぬぼれですらあったのかもしれない。
やっと雪平に近づけて、雪平の傍にいる立場を確保して、今起きている事件は雪平の関心、執念、思い、全てを捕らえている。
自分の起こした全てが雪平を引き付け、絡め捕り、まるでクモの巣でもがいているような雪平はそれでも凛として美しく、早く彼女の泣きじゃくって許しを請う姿が見たいと思う反面、その凛としたままの彼女でいて欲しいとも願う。
そう、最後の最後まで。
「雪平さん、そろそろ帰りましょう」
「んー?やだ。まだ飲む」
「もう閉店時間ですよ。ほら、起きてください」
「うるさいなぁ…」
しぶしぶ、という風に立ち上がった雪平の後を勘定を済ませて店を出て追いかけた安藤が見たのは、何故かフェンス脇にしゃがんでいる雪平だった。
気分でも悪いのかと慌てて駆け寄る。
「雪平さん、どうしたんですか」
「しーっ」
「え?」
「コイツがびっくりする」
雪平の視線を追いかけると、フェンスの向こう側に一匹の仔猫が蹲っていた。
怪我をしているのか、脚が妙な方向に曲がり殺気立っている。
「……脚、怪我してますね」
「うん」
「どうします?」
「深夜にやってる動物病院ってある?」
「探せば」
「頼める?安藤」
「はい」
すっと雪平が仔猫に手を差し出す。
「……おいで」
仔猫は怯え、毛を逆立てていたが、差し出された雪平の手におずおずと近づき、やがてそっと雪平の手におさまった。
「良かった」
「猫って警戒心強いものなんですけどね」
「らしいね」
「あ、雪平さん、ここの近くの動物病院、深夜診療してるそうです、そこに今予約したんで行きましょう」
「うん」
 病院に着くとすぐに傷の処置がとられ、たいしたことはない、すぐに直るといわれ、雪平も安藤も安堵のため息を漏らした。
「それで、この子はあなたたちご夫婦の子なの?」
っと医者に言われ、雪平が苦笑して
「あいにく夫婦ではないので違います。それにその子はさっきそこで拾ったんです」
「そうなの。あんまり安心してあなたに抱かれていたものだから、飼い主さんかと思ったわ。それでこの子はどうする?」
「できれば引き取って帰りたいんですが」
「安藤?」
「ダメですか?」
「いいえ、別にダメじゃないわ。でもこの子、首輪してるから、何処かのおうちの子だと思うの」
「あ……」
毛足の長い首に隠れて分からなかったけれど、確かに真新しい首輪をしている。
「きっとこの近所のおうちの子じゃないかしら。もし飼い主さんが見つからなければ、引き取ってもらえるとこの子も嬉しいと思うわ」
「……そうですか」
「しばらくうちで預かりましょう。もし飼い主さんが見つかっても見つからなくても連絡しますから」 「はい、分かりました……」




 猫を預けた帰り道で、雪平が足を止める。
「安藤」
「はい?」
「そんな、寂しそうな顔するな」
「寂しい?」
雪平に言われた言葉にきょとんとする。
「おまえがそんなに猫が好きだなんて知らなかったよ」
「え、あ。その……」
雪平の手におさまっている仔猫がまるで自分のように思えた。
だから、何だか、羨ましくて、それでいて捨てられたのかもしれないと思っていた仔猫が自分に重なって。
だから、つい。
「……安藤、うちにおいで」
「え?」
「そんな寂しそうな顔したまま帰らせるのもなんか悪いからな。うちで飲みなおそう」
「それって、雪平さんが酔いつぶれたら介抱しろってことじゃないですか」
「冷静なヤツだなー」
「いいですよ。でも僕はウーロン茶で」
「キャベツはないよ」
「分かってますよ」
「ま、あたしじゃ猫の代わりにならないかもしれないけど」
少し笑ったのは、雪平なりのジョークのつもりだったのだろうか。
分からなかったけど、彼女の気遣いが嬉しかった。
分かりにくいほどの優しさが嬉しかった。

――――― 好きだ、と思った。

(やっぱり、僕は死ぬしかないかな)
この人に殺されるしかないかもしれない。
認めたくないけど、認めてしまえば崩壊するだけだと分かっているけど。
(近いうち、僕はあなたに殺されますね、雪平さん)
仔猫を抱いた優しい手で、彼女はこの胸を撃ち抜くだろう。
(その時、最後の最後に僕を抱いてくれますか?)
死ぬのなら、雪平の手で、雪平の腕の中で、せめて幸福を感じながら。
生まれて来た事に後悔しかなかった人生に、雪平とそしてユタカと出会えたことだけが安藤にとって文字通り生きる糧であったから。
そして、ユタカはもういない。
ならば、後は雪平しかいない。
(せめて僕を抱き締めてくれますか?)
この人の腕の中で死ねる幸福も、復讐となるのならそれもまた雪平は受け入れてくれるだろう。
自分の愛した、執着した、美しいと思った雪平夏見は何も捨てられない女だから。
「雪平さん」
「ん?」
手を伸ばして、小柄な雪平の体をすっぽりと包み込むように抱き締める。
「あ、安藤?」
珍しく慌てたような雪平の声が可愛く思えて、安藤は雪平の髪を撫でた。
「……安藤?どうした?」
「眠れそうにないです」
「なんだ、それ」
「雪平さん。子守唄、歌ってください」
「子守唄?」
「はい。……僕のために。一回だけでいいですから」
抱き締めても、憎んでも、愛しても、どこまでも遠い女。
だからこそ、少しでも自分の痕跡を残したい。
もうすぐいなくなる自分のために。
そして貴女への「復讐」のために。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「だけど、子守唄はベッドの中で歌うもんだろ。ほら、帰るよ」
「はい」
腕を解くと、何事もなかったかのようにまた雪平が歩き始める。
安藤はその後を追い、隣に立ち、同じように歩き、そして思った。
(あなたが僕を殺すその日まで)
こうして寄り添っていよう。
これから更に傷つき、それでも足掻く雪平の隣に。
(僕はあなたの相棒でいます)
この願いに嘘はない。
そう、できれば、復讐なんてやめてこうしてずっと雪平といられたら―――――
(もうそれは許されませんけど。だけど、いいですよね?せめて、僕が死ぬ日まで傍にいさせてください)
「安藤」
「はい?」
「これからも眠れなかったら、いつでも呼べ」
「え?」
「おまえはあたしの相棒なんだから。……だから、あたしにもできることさせろ」
そう言って笑った彼女に、安藤も微笑んだ。
あの仔猫が飼い主と再会するのをせめて見届けてから死にたいと思ったが、どうも無理のようだ。
もうこんなに雪平を想っている自分では、破滅の糸を自分で手繰り寄せているようなものだ。
(だけど、いいか。幸せだから)
今は、幸せだから。
そして、雪平の少しは幸福ならいい。
一緒にいて、少しは幸福なら、自己満足だけど貴女に幸せをあげられたと思える。



安藤の願いが叶えられるその日は、とても晴れた日で、あの日見上げた空のようだった。
そして、願いどおり雪平の手に抱かれ、誰よりも遠かった彼女を捕らえた。
それを幸福と呼べるのなら。

自分で結末を決めた幸福を、安藤は手にしたのだ。
雪平への永遠の復讐を刻んで。
                              
                     






                              終





writerd by,nekomimi
安藤視点からの切なさというか自嘲というか、そういうものを意識しました。
彼の幸福って一体なんだったのか、という空しさはあると思うんですが、
せめて雪平の心というかそういうものに触れられたことは唯一の救いだったんじゃないかと。
救いのない孤独ではなく、安藤は救われたかった孤独の持ち主だったんだと思います。