6:泡立つ夜には躯を寄せて







 花屋の店先には、色とりどりの花が並んでいたけれど、目に付いたのは真っ赤な薔 薇だった。
「これ下さい」
と、雪平が指差したのは目に付いた真っ赤な薔薇の小さな花束で、三上は少し意外に 思った。
彼女には余りに似合わない花のように感じて。
「何?」
「いや…雪平が花を買うなんて、何かあったのかな、って思って」
「たまにはいいでしょ」
その花を抱え、向かったのはすでに住人のいなくなった部屋だ。
殺風景な部屋はもうすぐ片付けられるらしく、そうしたら、安藤がこの世にいた場所 が完全に消えてしまう気がして、その前に雪平はどうしてもここに来て安藤に会いた かった。
「……あたしに花なんか供えられても、嬉しくないかもしれないけどね」
「……」
「ふふ、キャベツのほうが良かったかな、安藤には」
そっと床に置いた真っ赤な薔薇は、まるであの時抱き締めた安藤の血の色のようだ。

苦しみの中で、彼が最後に選んだのは、誰よりも憎み、執着し、愛おしさを覚えた雪 平の腕の中だった。
 安藤は、それでも幸福だったのかもしれない。
ふと、三上がそう思ってしまったのはこの部屋に残る寂しい安藤の気配と、雪平と一 緒にいた安藤とあまりに違うものだったから。
少なくとも三上には、雪平と一緒にいた安藤は寂しそうに見えなかったから。
「……いつだったかな。俺、安藤と二人で飲んだことがあった」
「安藤と?」
「ああ。その時、安藤が言ってた。雪平さんはどうしてあんなに一人で頑張ろうとす るんでしょう、って」
「……そう」
「俺さ。どうしても、安藤の事、嫌いになれないんだよなぁ。いい奴だったから」
「……犯罪者でも?」
「ああ、好きだったよ、安藤の事。雪平、おまえもだろ?」
雪平は、三上の言葉には答えなかった。
ただ少しだけ微笑んで手を合わせただけだった。
 安藤がいない今、雪平の幸福はどこにあるのだろう?
そう思ったが口にはしないで、三上も手を合わせた。



 月のない夜の暗さは、まるで水の底のようで少し息苦しい。
グラスを傾けながら、雪平は窓辺に置いたグラスを見つめた。
安藤がいなくなってから、儀式が一つ増えた。
こうして、安藤の分のグラスを用意して、心の中にいる安藤と会話を交わすことだ。

人に見られたら狂ったのかと思われるだろうが、雪平の傍にはいつも安藤がいる。
雪平はその気配を疑ったことはなかった。
「……今日、薫ちゃんとアンタの部屋に行ってきたよ」
『そうですか』
「寝るだけの部屋だね」
『だって他にすることって言ったら、雪平さんのこと考える以外なかったですから』

「バカか、おまえは」
綺麗な音を立てて、氷が鳴った。
『雪平さん』
「……何?」
『飲みすぎですよ』
「まだ平気」
『だめです。心配なんです』
都合のいい優しい言葉だけ聞こえるのは、自分の心の弱さだろうか。
「これだけ飲んだら寝るから」
『……はい』
「そういや一回だけ、一緒に寝たっけ」
『あの時は真剣に焦りました』
「何で?」
『普通に考えたら焦るでしょ?だって目が覚めたら自分も裸で、雪平さんも裸で一緒 に寝てるんですよ?』
「別に何もなかったのに?」
『そういう問題じゃありません』
「こまかいこと気にする男だなー」
『雪平さんが大雑把すぎるんです』
体の左側が少し温かくなった。
雪平には分かる。
この温もりが安藤のものだと。
「……安藤」
『何ですか?』
「……このまま、一緒に寝よっか?」
『何もできないの、勿体無いですね』
「バカか、おまえは」
『……そうですね。……うん、それで雪平さんがぐっすり眠れるのならいいですよ』

ベッドに潜り込むと、寄り添う気配を感じ、目を閉じた。
月のない夜の闇は、瞳を閉じると尚深く、まるで水の底のようだ。
ああ、少し、寒い。
「……寒い」
『雪平さん……』
「……眠っちゃえば、平気かな……」
『それでも寒いですよ、きっと』
「……じゃあ、どうしたら、寒くない?」
『僕の事なんか忘れてしまえばいいんです』
「安藤……?」
『もういない僕のことなんか、忘れてしまえばいいんです。そうしたら、雪平さんは こんなに寂しくない』
切ない言葉とは裏腹に、安藤にきつく抱き締められた気がして、雪平は息をついた。

苦しい。
水の底に沈んでいくように苦しい。
『忘れてしまってください』
「……それはいやだ」
『雪平さん』
「あたしが忘れたら、誰があんたを覚えておくの?」
『僕は、誰にも覚えていてもらえなくていいんです』
「……あたしがいや」
『雪平さんは強情なんだから』
 人は、二度死ぬという。
人の心の中から消え去るとき、二度目の死を迎える。
だとしたら、こうして彼を覚えて抱え続けていくことしかもうできない。
『眠りましょう、雪平さん……』
「うん……」
『僕が傍にいますから』
「うん……」
『だけど、ずっとそれじゃいけないんです。……いつかは僕を忘れてください。あな たがあなたらしく生きるために』
「……」
『ずっと大好きですよ、雪平さん。……本当に、僕はあなたが大好きです』
いつか、この幻の声も聞こえなくなってしまうのだろうか。
今は、考えまい。
今だけはこうして寄り添って、誰にも知られたくない寂しさを摺り合わせて、眠ろ う。
幸福かどうかは分からない。
だけど、幸福だと思いたい。
あの赤い薔薇が枯れるように、いつかは心や想いも枯れていくのだろう。
必死で枯れないように足掻いても、枯れてしまうのだろう。
(その時、安藤の声はまだ聞こえるかな……)
分からないけど、分からなくていい。


寝息を邪魔しないように、グラスが揺れた。
月の光も届かない深い深い水底の静寂の中で、生者と死者が寄り添って、思いを重ね て、誰にも知られない幸福の中で眠る。


そう、幸福はここにある。
触れることの叶わない幸福でも。


雪平の唇に微かな笑みが灯った。
月のない夜に、誰にも知られない微笑みだけが、雪平の幸福だ。






                              終





writerd by,nekomimi
今回のテーマの基本は同衾かと。
最初は生きてる安藤にしようかと思ったんですが、
SPの時の雪平がずっと安藤の幻を 見てるのが印象的で、
死んでる安藤との会話にしました。
死んだ安藤とのほうが、きっと雪平は安心して話してる気がする。
悲しいことだけど。