2:黙しがちな月を仰ぎ見て







 彼が死んだ夜の月は、白い白い満月だった。
まるで届かなかった手のように、声のように、想いのように。
白い月が全てを飲み込んだ。
真珠色の月は人の手には届かないのに、人の心はあっさりと掴んでしまう。

だから、満月の夜の眠りはいつも、浅い。



 不意に目が覚めた。
コンクリート打ちっぱなしのしらけた壁とひんやりした空気に、今どんな夢を見てい たのか思い出そうとしてみる。
(……夢なんて見てなかったか、見てたとしてもいい夢じゃない)
そう思って、未練がましく考えようとする心を断ち切って安藤はベッドから起き上が り冷蔵庫からミネラルウォーターを出して一気に煽った。
「……ふぅ……」
 こんな真夜中に目覚めて考えるのは、いや、どんな時でも何をしていても、心が辿 り着いてしまうのは彼女の事だけ。
壁に無数に貼り付けた雪平の写真を見ながら、今頃彼女はどうしているのか考える。

(こんな時間だしな…。さすがに寝てるかな)

その時、静寂を叩き壊すように携帯が鳴った。

「は、はい、もしもしっ」
『安藤、起きてた?』
「…雪平さん」
『それとも起こした?』
「いえ、起きてました」
『意外に夜更かしタイプ?』
「そういうわけじゃありませんよ。……夢を見て、目が覚めたところでした」
『いい夢?悪い夢?』
「さぁ……覚えてません」
 部屋の中の重苦しい空気と殺意が、受話器越しに雪平に伝わってしまうのではない かとバカな事を考えて、安藤は窓を開けた。
夜の冷たい新鮮な空気が肺胞の奥まで届いて、少しスッキリした気がした。
「雪平さんこそ、こんな真夜中にどうしたんですか?」
『あたしも目が覚めて、何となく安藤の声が聞きたくなった』
「はぁ……」
顔が見えないぶん、一体彼女が今そんな表情でいるのか分からなくて戸惑う。
『月のせいかな』
「月、ですか?」
『そう』
「……満月ですね」
安藤も夜空を仰いで、変わらぬ月の形に思いを馳せる。

白い白い満月。
彼が死んだ日と同じ月。
殺意を持って月を見ると、月は赤く見えるという。
単なるお伽話かもしれないが、ならばどうしてこの目に映る月は赤くないのだろう。

誰よりも殺したい相手と話しているのに、どうして月は白いままなのだろう。

「……満月の夜は人殺しが増えるんだそうですよ」
『物騒だね』
「月の満ち引きって人間の精神状態の波と似てるそうです。雪平さん、切り裂き ジャックって知ってますか?」
『イギリスの殺人鬼だっけ』
「そうです。19世紀末、ロンドンの街で娼婦たちを殺した連続殺人鬼。彼の殺しは決 まって週末の夜ばかりだったそうです。しかも月の綺麗な夜」
見も知らぬ、過去の殺人鬼。
彼はわかっているだけで5人の娼婦を殺したという。
ならば自分はその数を超えることになるのだろうか。
『……じゃ、こういう話知ってる、安藤?』
「はい?」
『満月の夜は子供は生まれる数も多いって』
「へぇ……」
素直に感心のため息が零れた。
 人を殺す夜、何処かで新しい命も生まれているのか。
自分が生まれた夜がどんな月だったのか知らないけれど、できれば満月以外がいい。

ユタカの死んだ夜と同じ月でなければいい。
『人が生まれて死んでいくのを月はずっと見てるってことか』
「ですね。ずーっとずーっと見てるんですね」
『あたしがいつか死ぬ日も、今夜みたいに月の綺麗な夜なのかな』

ドキンとした。

死ぬ?
雪平が?

血を流して。
崩れて。
呼吸を止めて。

屍になる。

彼女の死に顔を夢想して、それが余りにリアルで、心臓を掴まれた気がした。

(落ち着け……!)
 安藤は細く息を漏らして、わざと明るく
「雪平さんが死ぬとしたら酒の飲みすぎでしょうね。月が綺麗だとか考えるヒマもな いと思いますよ」
と笑ってみせた。
『うるさいな』
殺したくて憎くてたまらないのに、彼女の声がこんなにも愛おしいのは何故だろう。

「……もう寝ましょう。明日も早いし」
『……安藤』
「はい」
『カーテン開けてる?』
「はい」
『あたしも。……月を見てる』
「僕もです」
『……なんでかな。満月を見ると寂しくなる』
「今も寂しいですか?」
一瞬の沈黙の後、雪平の小さな声が受話器の向こうから聞こえた。
『これは…戯言。だから朝になったら忘れてくれればいい』
「……」
『お父さんが死んだ夜も満月だった』
「……」
『満月はお父さんを殺した犯人も見ていたはず。……叶うなら、教えて欲しい』
「…犯人を?」
『うん』

それは彼女の生きる理由としては、余りにも悲しい願い。
そのために、夫と娘とすれ違い、今の孤独に彼女を落とした。

『……忘れて、安藤』
「……忘れませんよ」
『安藤』
「だけど、絶対に誰にも言いません。絶対に」
こんな悲しい願いを、誰にも教えたくない。
自分だけでいい。
誰よりも雪平を知り、執着し、想い、憎む自分だけでいい。
「今から行っていいですか?」
『バカか、おまえは』
「ビール、買って行きます。……せっかくだし、お月見しましょう、雪平さん」
彼女はいいとも悪いとも言わなかった。
ただ「じゃあ」と言って電話を切った。

無性に雪平に会いたくなった。
会いたくて会いたくておかしくなった。
月のせいだ。
月のせいにしてしまおう。
そう決めて、部屋を飛び出した。


この月を仰ぎ見るあなたを抱き締めてしまいたくなった。
こんな思いは、いつか自分を滅ぼすだろう。
ああ、そうだ。
滅ぼす思いでも、この思いも刃にする方法がある。
もう一つ、復讐の方法がある。




あなたの心で、永遠に生きることだ。
この月のように。







                              終





writerd by,nekomimi
二人が電話で話してるシーンが結構好き。
大抵、雪平からのアングルで安藤の表情が見えないのが色々、ネタになります。
このネタを書くために色々と月の写真サイトを回ってたら
ついつい夢中になってし まった。